運営責任者の私がEC家具販売にこだわる理由

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私と家具との出会い

私は、若い頃から家具が大好きで、特に結婚してからは、一段と家具に心を惹かれて行きました。
子供が出来てからは、公園巡りと家具店巡りは休日の決まりの様な日々でした。
当時は、婚礼家具の全盛であり、家具店も沢山有りました。妻も持参してきたものです。
では、職業はと言えば、金属加工工場を祖父の代から営んでおりました。
結婚して間もなく、製造を外注先に依頼し、商事会社に転身しました。
20年ほど経った頃、縁有って再び金属の世界に戻ることとなり、それを機会に会社を設立、独立しました。
動物実験機器に特化し、特殊ロボット等を開発製造して参りました。私の人生で最も輝いた時期でした。
10人足らずの小企業でも、当時の日本では関係企業が多岐に渡り存在していました。だから可能だったのです。
10数年が過ぎたある日、そんな満ち足りた毎日を打ち砕くことが起こりました。脇の甘さで会社は倒産に追い込まれたのです。58歳の時でした。
全く、縁故の無い世界で食べて行くために何でもしました。便利屋は思いのほか重宝がられました。そうした中、地域の情報誌を地域のお店や企業から広告を頂いて無料で地域住民に配布する仕事を考え付個人事業主として活動を開始しました。
地域で輝いていた家具店に広告をいただきに伺った時、会長さんに出会いました。
お願いする度に気持ち良く協賛いただき、親しくなって行きました。
この仕事も最後を迎えたある日、会長さんにこう言われました。
「この仕事が終わったら、うちの会社に来てくれないか」と。
この老舗の家具メーカーも家具工業会の理事長を務るほどの勢いでしたが、婚礼家具の衰退と共に家具製造から家具販売に業態転換しておりました。
ところが数年後に車で僅か10分位の所にニトリが開店したのです。今まで好調だった売り上げがガタ落ちになっていたのです。
会長さん曰く「ニトリが出店したお影で、うちの店も先が無い、だから2年を目途に閉店することにしたんです」
ではそんな店に何故私を誘ったのか不思議でした。
会長さんが続けて言いました「最後を恰好良く閉めたいんだよ、あなたのセンスで」と。
幾ら家具が好きでも「今まで、金属の扱いは知っていますが、木は家の庭のベンチを作った位であとは学校の工作位しかやったことがないです」と言うと「あなたを見てきて、何でもできる人だと私は思う、コンピューターでこんな画像や文書が書けたり、営業力は大したもんですよ」と「だから、来てくれ」
ベッドやマットレス、学習机に二段ベッド等を中国の工場に委託、御徒町の有名店に納めたりしていました。
最初の仕事は、中国から来た大型コンテナから倉庫内に数人のアルバイトの手を借りて運び込むことでした。
真夏の作業は言葉にならないほど過酷でした。皆、私の指示に良く従ってくれて、初めてなのに凄いと褒められました。
最大の任務は、卸の出荷と店内で販売した商品の配送の準備でした。間違えてはなりません。
会長が私を雇ったもう一つの目的は、社内改革、つまり人員整理。
古くからの大半の従業員は退職していましたが、まだ数名おりました。それも「俺たちがいないと店が回らないだろうとたかをくぐり給料値上げを要求したとのこと」そこで、「この人が来たから、条件に不満が有れば辞めてもいいですよ」辞めて行きました。
私に対する期待は益々大きくなってきます。鍵も渡され「任せます」と言われました。
そんな中でも、まだ私をなめてかかる人間がおりました。
土日に配送を担当する配送業者。次に、以前から従事しているアルバイト達。
ある日、私のミスを見つけては見下す配達員に「なめてんじゃねーぞ」と一括。他の人間にも同様に一括。
驚いたのかそれ以降人が変わった様に皆、私の指示に従ってくれる様になりました。
日々多様な出来事をこなしながら、1年半が過ぎた頃、「来月一杯で閉めたい」と会長から言われました。
家具に対するあれこれを教えて下さいました。仕入れ、販売、出荷、修理、作図、店の運営何から何まで。
壁に2面に貼りだす「閉店セールの広告」畳3枚ほどの大きさの看板を作るため、家に帰ってから入浴と食事を済ませてから、PCに向かい、大判プリンターで分割印刷して数日掛けて完成させました。
元々店にする前は工場でしたから、木工機械も何台か残っていて奥の方に使える状態で放置して有りますた。
木材やコンパネ等も多く有りました。
アルバイトと2人で看板を作り上げ国道からよく見える壁に設置しました。大雨や風の日はひやひやしました。
最後までよく耐えてくれました。何とか格好よく「閉店」することが出来ました。
永らく賃借してきた大きな建物からの撤退です。
後始末は並大抵なものでは有りませんでした。私に取って後始末は2度目でした。

その後幾度かパソコンの指導などでご自宅を訪問しましたがしばらく疎遠になっていました。

私は、新聞広告の採用欄でセイコーグループの精密機器のメンテナンス会社の営業企画に採用されました。
1年後に自由に仕事ができる様になった時、私の提案した企画が大ヒットし大きな売り上げに貢献しました。

そんなある日、家具店でお目にかかった方から、以前取引の有った御徒町の家具店から販売員にとのお誘いをいただきました。

月曜から金曜は営業企画、土日祝日は家具販売と休日なしの日々が1年半ほど続きました。

ある日、営業企画で直属の上司は猛反対してくれましたが、年齢が65歳を過ぎていたため、退職が迫った他の社員から不満が出たので、自ら身を引き退職しました。

それから10年ほど土日祝日を家具販売に身を投じて参りました。
そんな中で、東京ドームシティやTOC等でイベントを開催する様になり、私もそちらに参加する様になりました。
当初は壁面収納だったり、収納家具が中心でしたがだんだんとダイニングに移って行きました。
そこでは、飛騨高山、第一産業高山本店1-Style&HIDA MINO JAPANのダイニング「悠」等を多く販売いたしました。
近くで販売していたのがWeDOStyle(当時は大塚家具製造販売)でした。

WeDOStyleの担当者とは、機会有るごとにお互いに扱う商品の情報交換をしたり、余りお客さんを独り占めしないでねとか冗談を言いながら切磋琢磨して参りました。

2年ほど前に御徒町の家具店が家具販売から撤退することになりました。私も家具販売からここで「終了」です。

これまでに、家具に取り付かれた私は、家具が頭から離れませんでした。

親しくなっていたWeDOStyleの担当者にWeDOStyleの製品をネット販売させて欲しい旨伝えました。
「それには、商品をもっともっと理解したいのでイベントに参加する機会をいただきたい」と話すと、「是非、販売に協力して下さい」と逆に誘っていただきました。

これが現在家具イベントでWeDOStyleのブースに立っている経緯です。

並行して、家具・インテリア 通販 ShopRoadを立ち上げ、現場での経験を活かして全国の皆様にWeDOStyle及び1-Style&HIDA MINO JAPANの良質な家具をお届けして参りたいと奮闘しております。年老いて、ブースに立てなくなっても、家具販売に携わっていたいとの思いがEC立ち上げに繫がっております。

例のお世話になった家具の師匠とは現在も交流を深め、PCの指導に訪れたり、趣味の絵画が今では銀座で個展を開くまでに手腕を高められ87歳になっても尚、元気に絵画の制作に取り組んでいらっしゃいます。

 

 

 

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